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越智の輪講:学道用心集「直下承当の事」&正法眼蔵「重雲堂式」、2016年2月12日

~トピックス~
各々の坐禅:ネルケ無方・南直哉・藤田一照のアプローチ。国家・家族・叢林における調和の意味。四馬(しめ)と大道の話うんぬん・・・

原文:
右、身心を決択(けつちゃく)するに、自(おのず)から両般(りょうはん)あり、参師聞法(さんしもんぽう)と、功夫坐禅(くふうざぜん)となり。
聞法は心識を遊化(ゆげ)し、坐禅は行證を左右にす。
是を以て佛道に入るに、尚ほ一を捨てて承当(じょうとう)すべからず。

原文:
夫、人は皆な身心あり、作は必ず強弱あり。
勇猛と昧劣となり。
也たは動、也たは容、此の身心を以て、直に佛を證す、是れ承当なり。
所謂従来の身心を回転せず、但だ他の證に随い去るを、直下(じきげ)と名ずくるなり、承当と名
ずくるなり。
唯だ他に随い去る、所以(ゆえ)に旧見に非ざるなり。
唯だ承当し去る、所以に新巣に非ざるなり。

原文:
一 道心ありて名利をなげすてんひといるべし。いたづらに、まことなからんもの、いるべからず。あやまりていれりとも、かんがへていだすべし。しるべし道心ひそかにをこれば、名利たちどころに解脱するものなり。おほよそ大千界のなかに、正嫡の付屬まれなり。わがくにむかしよりいまこれを本源とせん。のちをあはれみて、いまをおもくすべし。

坐禅の説明と、「なりきっているかどうか」の基準、2016年2月11日

かすんでいる中で、堂頭が英語で坐禅の足と手の組み方を説明しています:

日本語のアーカイブにも詳しい説明があります:

正しい坐り方
正しい坐り方(2)
正しい坐り方(3)
正しい坐り方(4)
正しい坐り方(5)
正しい坐り方(6)
正しい坐り方(7)
正しい坐り方(8)
正しい坐り方(9)
正しい坐り方(10)
正しい坐り方(11)
正しい坐り方(12)
正しい坐り方(13)
正しい坐り方(14)

足の組み方について:

足を組む
足を組む (2)
足を組む (3)
足を組む (4)
足を組む (5)
足を組む (6)

手の組み方について:

手を組む

その他:

正身端坐

ただ坐る

ただ坐る

「坐禅しても、何もならない」
「ならば、なぜ坐禅をするのですか?」
この問いから出発して、坐禅に向かう姿勢、環境の整理、身・息・心のととのえ方から、坐禅と実生活の結び付きまで説明している一冊です。

書評:finalvent.cocolog-nifty.com

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雲堂の坐禅インストラクション:

今朝の輪講の質疑応答では、ノブが神田に「なりきっているかどうか」の基準を聞いてみました:

新温泉町移住定住プロモーション & L.A.Zenmonki

縦横無尽に広がる「ノブ・ワールド」、2016年2月9日

ノブが学道用心集「禅僧の行履の事」について発表します。
いきなり手塚治虫の「火の鳥」や、漫画太郎の「珍遊記」から、話はスタートしています。
原文:
右、仏祖(ぶっそ)より以来(このかた)、直指(じきし)単傳(たんでん)、西乾(さいけん)四七、東地(とうち)六世(ろくせ)、絲毫(しごう)を添(そ)えず、一塵(じん)を破(やぶ)ること莫(な)し。衣(え)は曹渓(そうけい)に及び、法は沙界(しゃかい)に周(あま)ねし。

職人の心構え、「守破離」などについて話は続きます。
原文:
時に如来の正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、巨唐(きよとう)に盛んなり。其の法の體(てい)為(た)らくは、摸索(もさく)するも得ず、求覓(ぐみゃく)するも得ず。見處(けんじょ)に知(ち)を忘(ぼう)じ、得時(とくじ)に心を超(こ)ゆ。面目(めんもく)を黄梅(おうばい)に失(しつ)し、臂腕(ひわん)を少室(しょうしつ)に断(だん)ず。髄(ずい)を得、心(しん)を飜(ひるが)えして風流(ふうりゅう)を買ひ、拜(はい)を設(もう)け、歩(ほ)を退(しりぞ)いて便宜(べんぎ)に墮(お)つ。然(しか)れども、心に於ても身に於ても、住(じゅう)するなく著(じゃく)する無(な)し。留(とどま)らず滞(とどこお)らず。

「趙州無字」について。安心してください、ネタバレはしません。
原文:
趙州(じょうしゅう)に僧問(と)う、狗子(くす)に還(かえ)つて仏性(ぶっしょう)ありや無なしやと。
州云く、無(む)と。
無字の上に於いて、擬量(ぎりょう)し得てんや、擁滞(ようたい)し得てんや。全く巴鼻(はび)なし。請(こ)う試みに手を撒(さっ)せよ。且(しば)らく手を撒して看(み)よ。身心は如何、行李(あんり)は如何ん、生死(しょうじ)は如何ん、仏法は如何ん、世法は如何ん、山河(さんが)大地、人畜(にんちく)家屋(かおく)、畢竟(ひっきょう)如何ん。

最後の「祈祷、祈祷!」まで、丁寧に説明してもらいました。
原文:
看来り(みきた)り看(み)去って、自然(じねん)に動静(どうじょう)の二相(にそう)了然(りょうねん)として生ぜず。此の不生(ふしょう)の時、是れ頑然(がんねん)にあらず、人之れを證する無く、之れに迷うもの惟(こ)れ多し。参禅の人、且(しば)らく半途(はんと)・半迷(はんめい)にして始めて得たり、全途(ぜんと)・全迷(ぜんめい)にして辞(じ)すること莫れ。
祈祷(きとう)、祈祷(きとう)。

雪隠の輪講:学道用心集「佛法を修行し出離を欣求する人は須らく参禅すべき事」、2016年2月8日

安泰寺の広間にて。最初の20分の様子です:

原文:
右、仏法は諸道(しょどう)に勝(すぐ)れたり。所以(ゆえ)に人之(こ)れを求む。
如来(にょらい)の在世(ざいせ)には、全く二教(にきょう)なく、全く二師(にし)なし。大師釈尊、唯だ無上(むじょう)菩提(ぼだい)を以つて、衆生(しゅじょう)を誘引(ゆういん)するのみ。
迦葉(かしょう)、正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を傳へてより以来(このかた)、西天(さいてん)二十八代、東土(とうど)六代、乃至五家(ごけ)の諸祖(しょそ)、嫡々(てきてき)相承(そうじょう)して、更に断絶(だんぜつ)なし。
然れば則ち梁(りょう)の普通(ふつう)中以後(いご)、始め僧徒(そうと)より、及び王臣に至るまで、抜群(ばつぐん)の者は、帰(き)せずといふこと無し。
誠に夫(そ)れ、勝(しょう)を愛すべき所以(ゆえん)は、勝(しょう)を愛すべきなればなり。葉公(しょうこう)の龍を愛するが如くなるべからざるか。
神丹(しんだん)以東(いとう)の諸国、文字の教網(きょうもう)、海(うみ)に布(し)き山に遍(あま)ねし。山に遍(あま)ねしと雖も雲心(うんしん)なく、海に布(し)くと雖も波心(はしん)を枯(から)す。愚者(ぐしゃ)は之を嗜(たしな)む。譬(たと)えば魚目(ぎょもく)を撮(とっ)て以て珠(たま)と執(しゅう)するが如し。
迷者(めいしゃ)は之を翫(もてあそ)ぶ。譬(たと)えば燕石(えんせき)を蔵(ぞう)して玉と崇(あが)むるが如し。多くは魔坑(まきょう)に堕(だ)して、屡(しばし)ば自身を損(そん)す。哀(かなし)む可(べ)し、辺鄙(へんぴ)の境(きょう)は邪風(じゃふう)扇(あお)ぎ易(やす)く、正法は通じ難し。
然りと雖も、神丹の一国は、已(すで)に仏の正法に帰す。我が朝(ちょう)、高麗(こうらい)等は、仏の正法未だ弘通(ぐづう)せず。何(なに)が為ぞ、何(なに)が為ぞ。
高麗国は猶(な)お正法の名を聞くも、我が朝(ちょう)は未だ嘗(かつ)て聞くことを得ず。前来入唐((にゅつとう)の諸師、皆な教網(きょうもう)に滞(とどこ)るが故なり。仏書を傳うと雖も、仏法を忘るるが如し。其の益(えき)是れ何ぞ。其の功(こう)終に空し。是れ乃ち学道の故実(こじつ)を知(し)らざる所以なり。哀(あわ)れむ可し、徒(いたず)らに労(ろう)して一生の人身(にんしん)を過すことを。
夫れ仏道を学ぶに、初め門に入る時、知識の教(おし)えを聞き、教えの如く修行す。此の時知る可き事あり。
所謂(いわゆる)法(ほう)我(われ)を転(てん)じ、我(われ)法を転(てん)ずるなり。我(われ)能く法を転(てん)ずるの時は、我は強く法は弱きなり。法還(かえ)って我(われ)を転(てん)ずるの時は、法は強く我は弱きなり。
仏法従来(じゅうらい)此の両節(りょうせつ)あり、正嫡(しょうてき)に非ずんば、未だ嘗(かつ)て之を知らず。
衲僧(のうそう)に非ずんば、名(な)すら尚お聞くこと罕(まれ)なり。
若し此の故実(こじつ)を知(しら)ずんば、学道未だ辨(べん)ぜず、正邪奚為(なんすれ)ぞ分別(ふんべつ)せん。
今、参禅学道の人、自(おのず)から此の故実を傳授(でんじゅ)す。所以(ゆえ)に誤(あやま)らざるなり。餘門(よもん)には無し。仏道を欣求(ごんぐ)するの人、参禅に非ずんば眞道(しんどう)を了知(りょうち)すべからず。

最後に「法、我を転じ、我、法を転じる」からくりについて、無為から質問がありました:

輪講の後の質疑応答:「なぜ修行を続けるのか?」、2016年2月7日

朝と晩の「お散歩」、2016年1月24日

おならと智慧、2015年1月22日

今日はノブの輪講の当番でした。「八大人覚」の原文
七者には修智慧。聞思修証を起すを智慧と為す。
佛言わく、「汝等比丘、若し智慧有れば、則ち貪著無し。常に自ら省察して、失有ら令め不れ。是れ則ち我が法中に於て、能く解脱を得。若し爾ら不る者は、既に道人に非ず、又百衣に非ず、名づくる所無き也。実智慧の者は則ち是れ老病死海を度る堅牢の船也、亦た是れ無明黒暗の大明燈也。一切病者の良薬也、煩悩の樹を伐る之利斧也。是の故に汝等、当に聞思修の慧を以て而も自ら増益す而し。若し人、智慧の照有れば是れ肉眼なりと雖も、而も是れ明見の人也。 是れを智慧と名づく。」

仏教は「ヒキコモリ」の宗教!?、2015年1月18日

今年の冬安居で首座をつとめる無為が「八大人覚」の輪講に当たりました。
最初の十数分を下の動画でご覧になれます。

原文:
三者には楽寂静。
諸のかい閙を離れ、空閑に独処す。楽寂静と名づく。
佛言わく、「汝等比丘、寂静無為の安楽を求めんと欲せば、当にかい閙を離れて、独処に閑居すべし。
静処之人は、帝釈諸天の共に敬重する所なり。是の故に当に、己衆佗衆を捨てて、空閑に独処して、苦本を滅せんことを思うべし。
若し衆を楽う者は、則ち衆悩を受く。譬えば大樹の衆鳥之に集まれば則ち枯折の患有るが如し。
世間は縛著して衆苦に没す。譬えば老象の泥に溺れて自ら出ずること能わざるがごとし。是を遠離と名づく。」

ネルケ無方著「ただ坐る」より:

静処というありよう

 坐禅儀の中では、坐禅の環境について次のように述べられています。

 坐禪は靜處よろし。

 坐る場所は静かでなければなりません。周りがうるさければ、坐禅に集中しにくいものです。しかし、山奥ならともかく、町の中で坐禅をしている場合、なかなかそううまくはいかないでしょう。車の音、隣の家から響く声…六婆羅蜜(ろくはらみつ)のうちの忍耐(安忍ともいう)を行じなければならない時もあります。
 一九九〇年代のはじめ、私は留学生として京都にいました。大文字山のふもと、左京区北白川の静かな住宅街に下宿をしていました。気になるほどの騒音ではありませんでしたが、日中は当然、物音や車の行き交う音がしていました。なので、月に一、二回参加していた安泰寺の接心の静寂さにいつも期待していました。安泰寺は一本の細い山道の終着点にあり、バス停から四キロ離れています。午後に手紙をもってきてくれる郵便屋さんのカブの音以外は人工的な音がほとんど聞こえない所なのです。
 ところが、そのころから日本政府が「地滑り対策」と銘打った莫大な税金を注ぎ込む事業の対象地域に安泰寺の境内も指定され、周辺に穴を掘って地下水を排出させたりダムを造ったりする作業がなされたのです。つまり、この作業が行われると、巨大なトラックや重機が寺の境内に出入りし、実に騒々しい限りなわけです。もちろん、この作業はたかだか安泰寺の接心くらいでは休んでくれるはずもありません。
 わざわざ京都から電車やバスを乗り継ぎ、あの急な坂道を歩いて上って接心中の静寂を求めて来た私にふりかかった災難…それは下界よりも尚一層の騒音なのでした。安泰寺の雲水たちは全く気にする様子もなく、騒音を子守歌にしあわせそうに居眠りしている者もいましたが、私はというと、坐禅中にトラックが往き来し私の集中を妨げると、もう血管がブチ切れそうになるほど腹が立っていました。なぜ誰もせめて接心中は工事を中断するように言わないのか、不思議でなりませんでした。接心以外の時にでも、私が京都に帰ってここにいない時にでも、工事をすればいいではないか!
 この経験から学んだことは、私を取り巻く騒音よりも、私自身のココロの「騒音」の方がよほどうるさかったということです。「静かに!」という言葉は、むしろそういいたい自分自身に投げかけなければなりません。忍耐の修行とは歯を食いしばることでも、思考を停止させることでもないのです。ただ、受け入れなければならない現実を静かに受け入れることなのです。
 「八大人覚」という正法眼蔵の巻で道元禅師は大人の八つの条件を取り上げています。一般にもよく知られている「少欲」と「知足(ちそく)」につづいて、三番目は「楽寂静(ぎょうじゃくじょう)」という大人の条件です。その中身を禅師は次の言葉で説明されています:

諸の憒閙(かいにょう)を離れ、空間に独処するを、楽寂静と名づく。

憒閙(かいにょう)とは市場のように、多くの人が騒いでる様子から、身心を乱し、悩ませる煩悩をいいます。ここで大事なことは、煩悩の騒音が決して自分の外側にあるのではない、という大人の気づきです。

冬安居中の上山、2015年1月15日

今年は暖冬で、例年より雪の量は少ないですが、向こう一週間は積もる予定です。
外界の雑音が届かない銀世界で、坐禅三昧と「学道用心集」「重雲堂式」「八大人覚」の輪講に打ち込めます。